シーガルハウス Concept 1976
30年前の夏、とりあえず何か仕事を探さなけりゃと思っていたとき、偶然目に付いた
駅の募集広告、それが私のシルク印刷との出逢いだった。
駅の募集広告、それが私のシルク印刷との出逢いだった。
当時、いや今でもシルク印刷の知名度はかなり低いのではないでしょうか。
知ってみると、街のいたる所で目にすることができるのですが。
とりあえず入ったその会社では、3M社スコッチシートの印刷加工専門会社だった。
初めて目にしたスクリーン(シルク)印刷なる技法は私に合っていたのか、以後10年
就くことになる。
その間の一番の思い出は、ハウス食品の屋上看板制作、かな。
問題の物件は西城秀樹とチョコレートの写真をスコッチシートに4色網点印刷すること。
しかも大きさが縦4500、横6000を21分割×20セット、21×4、84枚の版が必要だった。
当時インクジェットはまだまだ一般的ではない時代。
網点のシルク印刷はそりゃそりゃあ大変でした・・・。
独立目標の私は、次に移った会社では社内外注として建物の一角を印刷場とし、
スコッチシートから建築関連の印刷を始める。
この時期カッティングマシンもやっと出始めたときで、内部サインでは単品のものでも
ほとんどシルク印刷の指定だった。
贅沢なことに 「このぐらいだったらシートにしてほしいな」 などとほざいていたものだ。
今ではまったく逆転し、ほんの一部が 「やはりシルクでなくては」 と、来るくらい。
そしてやってきたバブル期はホテル、病院、企業ビルと1人ではまかないきれず外注
まで出すほどで、今思えば夢のよう。
知ってみると、街のいたる所で目にすることができるのですが。
とりあえず入ったその会社では、3M社スコッチシートの印刷加工専門会社だった。
初めて目にしたスクリーン(シルク)印刷なる技法は私に合っていたのか、以後10年
就くことになる。
その間の一番の思い出は、ハウス食品の屋上看板制作、かな。
問題の物件は西城秀樹とチョコレートの写真をスコッチシートに4色網点印刷すること。
しかも大きさが縦4500、横6000を21分割×20セット、21×4、84枚の版が必要だった。
当時インクジェットはまだまだ一般的ではない時代。
網点のシルク印刷はそりゃそりゃあ大変でした・・・。
独立目標の私は、次に移った会社では社内外注として建物の一角を印刷場とし、
スコッチシートから建築関連の印刷を始める。
この時期カッティングマシンもやっと出始めたときで、内部サインでは単品のものでも
ほとんどシルク印刷の指定だった。
贅沢なことに 「このぐらいだったらシートにしてほしいな」 などとほざいていたものだ。
今ではまったく逆転し、ほんの一部が 「やはりシルクでなくては」 と、来るくらい。
そしてやってきたバブル期はホテル、病院、企業ビルと1人ではまかないきれず外注
まで出すほどで、今思えば夢のよう。
東京ドームの貴賓室の壁には、シルク印刷したドームのイラストが描かれている。
(オープン当時、今もあるのかなぁ)
それはダイノックシート900×1800サイズ7枚にイラストを印刷したもの。
7分割にして各1枚ずつのみ印刷、狭い工房なので大変な作業でした。
貼り施工に立ち会えず、一度も見ていないのが残念。
そしてバブル期も終焉の頃、ここ秦野へ移住。
しばらく建築関連のシルクを専門にしておりましたが、時期も時期、お得意様の倒産
未払い・・・ずいぶん稼いだはずなのに、残ったのは借金。
やがて今、年々減少一方のシルクですが、それに関わるあらゆる層のお客様に、速く
正確な印刷で対応させていただいております。
このホームページを開設する目的の一つ。
それはシルク印刷をもっと知って欲しい、そのため印刷工程を入れました。
今後はもっと難しい印刷の工程を公開したいと思っています。
(オープン当時、今もあるのかなぁ)
それはダイノックシート900×1800サイズ7枚にイラストを印刷したもの。
7分割にして各1枚ずつのみ印刷、狭い工房なので大変な作業でした。
貼り施工に立ち会えず、一度も見ていないのが残念。
そしてバブル期も終焉の頃、ここ秦野へ移住。
しばらく建築関連のシルクを専門にしておりましたが、時期も時期、お得意様の倒産
未払い・・・ずいぶん稼いだはずなのに、残ったのは借金。
やがて今、年々減少一方のシルクですが、それに関わるあらゆる層のお客様に、速く
正確な印刷で対応させていただいております。
このホームページを開設する目的の一つ。
それはシルク印刷をもっと知って欲しい、そのため印刷工程を入れました。
今後はもっと難しい印刷の工程を公開したいと思っています。
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